一柳慧 TOSHI ICHIYANAGI 1933 - 2022

一柳 慧×白井 晃  神奈川芸術文化財団芸術監督プロジェクト [Memory of Zero] 2019.3.9~10 神奈川県民ホール / 撮影:瀬戸秀美

戦後の少年時代から音楽的な環境で育ち、若くしてピアノに作曲に天才的な閃きを発揮した一柳慧。その才人は伝統をリスペクトしながらも、どこか現状に疑問をもっていましたが、ニューヨークでのジョン・ケージとの出会いが彼の魂を解き放ちます。
それからの一柳の、国内外での目覚ましい活動は皆さまが知る通り。邦楽、美術、建築、ダンス、演劇・・・あらゆるジャンルと交わって、その独自のセンスが充溢した音楽空間は開かれたものとなり、大きく広がっていきました。

2000年に神奈川芸術文化財団の芸術総監督に就任してからも、その活動はますます充実し、またこの地を中心に多くの人々へと伝わっていきました。
本サイトは、約20年にわたる芸術総監督としての活動を中心に一柳慧自身の歩みをご紹介するものです。

2023.1. 公益財団法人神奈川芸術文化財団

一柳 慧 / Toshi Ichiyanagi 作曲家・ピアニスト

一柳 慧 / Toshi Ichiyanagi 作曲家・ピアニスト

1933年、神戸生まれ。52年に19歳で渡米、ジョン・ケージとの知己を得、偶然性や図形楽譜による音楽活動を展開。61年に帰国、自作品並びに欧米の新しい作品の演奏と紹介で様々な分野に強い刺激を与えるとともに、国内外で精力的に作品発表と演奏活動を行う。尾高賞を5回、サントリー音楽賞、ジョン・ケージ賞、恩賜賞及び日本芸術院賞ほか受賞多数。2008年より文化功労者。18年文化勲章受章。2000年より2022年に逝去するまで神奈川芸術文化財団芸術総監督を務めた。

1933年、神戸生まれ。52年に19歳で渡米、ジョン・ケージとの知己を得、偶然性や図形楽譜による音楽活動を展開。61年に帰国、自作品並びに欧米の新しい作品の演奏と紹介で様々な分野に強い刺激を与えるとともに、国内外で精力的に作品発表と演奏活動を行う。尾高賞を5回、サントリー音楽賞、ジョン・ケージ賞、恩賜賞及び日本芸術院賞ほか受賞多数。2008年より文化功労者。18年文化勲章受章。2000年より2022年に逝去するまで神奈川芸術文化財団芸術総監督を務めた。

HISTORY Toshi Ichiyanagi

1933 - 1961 誕生。音楽家としての成長。
そして留学したニューヨークにおけるジョン・ケージとの運命的な出会い

1933年
2月4日チェロ奏者の父とピアニストの母のもと、神戸に生まれる。
1935年
東京に移る。母がピアノ教室を始め、手ほどきを受ける。
1945年
終戦後、母とともにお茶の水や飯倉の将校クラブでディナー・ミュージックを演奏し、プロとして演奏活動を始める。
1949年
ピアニスト原智恵子の下で本格的にピアノを学び始める。
作曲を平尾貴四男、池内友次郎に師事、「ピアノ・ソナタ」で毎日音楽コンクール (現日本音楽コンクール) 作曲部門 第1位。
以降50年 (第2位) 、 51年 (第1位) と、同コンクールで3年連続入賞する。
1952年
2週間の船旅を経てアメリカに渡る。ミネソタ大学音楽学部に留学。
1954年
ニューヨークのジュリアード音楽院に転入学。
《ヴァイオリンとピアノのためのソナタ》で優秀作に与えられる E. クーリッジ賞受賞。「弦楽四重奏曲」と合わせてジュリアード弦楽四重奏団らによって初演される。以後S. クーセヴィツキ賞 (1956) 、A. グレチャニノフ賞 (1957) など多数の賞を受賞。
1957年
ピアニスト、デヴィッド・チューダーの演奏で初めてジョン・ケージの音楽と出会う。
1959年
《ピアノ音楽第1、第2》作曲
1960年
《ピアノ音楽第3、第4、第5》作曲
ニューヨーク滞在中に、ケージやチューダーのほか、テリー・ライリーら最先端で活躍する音楽家をはじめ、舞踊家のマース・カニングハム、現代美術家のロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズらと親しく交流する。
1961年
《ピアノ音楽第6、第7》作曲
帰国。20世紀音楽研究会主催の「現代音楽祭」が大阪・御堂会館で開催され、その第一夜「アメリカ前衛音楽」を監修。
ケージを紹介したほか、この音楽祭では自作や欧米の新しい音楽の紹介や演奏をおこない、様々な分野に強い刺激を与えた。

メッセージMessage

音楽学者 神奈川県民ホール・神奈川県立音楽堂芸術参与(2019~)沼野 雄司

恋する人としての一柳慧
一柳さんとケージとの出会いについては、まるで「お嬢様が不良を好きになるような」感覚ではなかったかと思っている。一柳さんはそもそも、ケージよりもはるかに正統的な訓練を積んだ人であり、ジュリアード音楽院ではピアノも作曲も抜群の成績だったのだから、そのまま「大家」になってもおかしくはなかったのだ。
それなのに、一柳さんはケージと出会ってしまった。結果として、彼は五線譜による構築の世界から離れて、実験と偶然と即興が交錯する荒地へと歩みを進めることになる。妙な言い方だが、惚れっぽい人なのだ。日本に帰国してからは、邦楽器に、交響曲に、オペラに、そしてさまざまな演奏家に恋するなかで、必然として次々に作風を変えていった。
生涯にわたって、そうした惚れっぽさは変わらなかったように思う。実際、彼とコーヒーを飲んだり、中華を食べたり、一緒に電車で移動するときには、新しい「恋愛」の話が出るのが常だった。新しい出会い、新しい企画、新しい作曲アイディア・・・。いつでも新しさにワクワクしているから、愚痴やネガティヴな感情とは無縁なのである。
そんなことに気づいたとき、彼のすべての作品に通底するポジティヴな性格の理由が突如として分かったのだった。

1962 - 1999 帰国後、様々な分野に触発され、活動は立体的に、いよいよ幅広くなっていく

1962年
ジョン・ケージ初来日。日本各地でデヴィッド・チューダー、武満徹、高橋悠治らとともに公演し、音楽評論家の吉田秀和は「ジョン・ケージ・ショック」と論評。日本の芸術界に強い衝撃を与える。
武満や高橋らのほか、小杉武久、黛敏郎、石井眞木、高橋アキ、磯崎新、横尾忠則ら多数の芸術家と交流。
1966年
ロックフェラー財団の招きで1年間ニューヨークに滞在。
アメリカ各地で作品発表を行う。
1970年
かねてより建築と音楽のコラボレーションに興味を持ち、大阪万博で磯崎新がデザインを担当したお祭り広場の音楽を作曲。
同じく岡本太郎がデザインした「太陽の塔」の内部で流す《生活空間のための音楽》を作曲。
1972年
「音響デザイン展」を開催する。
《ピアノ・メディア》を高橋アキが初演。
この頃から、邦楽や雅楽の面白さに目覚め、本格的に勉強を始める。
1976年
ドイツ学術交流会 (DAAD) の招聘でベルリン市にコンポーザー・イン・レジデンスとして半年間滞在。欧州各地の音楽祭で自作の発表と邦人作品の演奏を行う。その後も度々訪欧し、ヨーロッパのプロ・ムジカ・ノヴァ・アンサンブル
(1976) 、メタムジーク・フェスティバル
(1978) 、ケルン現代音楽祭 (1978、81) 、オランダ音楽祭 (1979) 、ベルリン芸術週間などから委嘱を受ける。

邦楽器のための作品や、国立劇場を主な舞台として木戸敏郎、芝祐靖らと協働し、正倉院の復元楽器を使うなどした、雅楽や聲明の作品を数多く発表する。
1978年
能楽を取り入れた《ディスタンス》をドイツで初演。
1981年
《ピアノ協奏曲第1番「空間の記憶」》を作曲し、翌年に第30回尾高賞を受賞。1984年に、作曲、演奏、プロデュース活動に対して中島健蔵音楽賞最優秀賞を、また《ヴァイオリン協奏曲「循環する風景」》で2度目の尾高賞を受賞。同曲は同年2月にニューヨークのカーネギーホールでアメリカ初演された。同じ年の6月には日仏文化サミットの一環として、武満徹とともにパリのシャンゼリゼ劇場でフランス国立管弦楽団によるオーケストラ作品の演奏会が行われた。
そして1980年代から神奈川県直営時代の県民ホールで、シリーズ「音楽の現在」の企画構成・音楽監督を務めることとなる。
1984年
《密度》初演 (演奏:邦楽4人の会)
1988年
《交響曲「ベルリン連詩」》初演。翌年の毎日芸術賞を受賞、1989年には《ピアノ協奏曲第2番「冬の肖像」》が、90年には《ベルリン連詩》が尾高賞を受賞。
1989年
伝統楽器と聲明を中心とした合奏団「TIME- 東京インターナショナル・ミュージック・アンサンブル・新しい伝統」を結成。以来、欧米へ演奏旅行を重ね、ベルリン芸術祭(1992)、ウィーン・モデルン(1996)などに参加。
1990年
《フレンズ》初演 (ヴァイオリン:小林健次)
1995年
神奈川県民ホール開館20周年記念《交響曲第3番「交信」》初演。 (※)
1996年
神奈川芸術文化財団・理事に就任。
神奈川県立音楽堂における「武満徹追悼演奏会」で《時の佇まいⅣ-武満徹の追悼に-》初演。
1998年
《オペラ「モモ」改訂版》初演。 (県民/※)

メッセージMessage

作曲家池辺 晋一郎

一柳慧さんを偲んで
J.ケージの薫陶を受けた一柳慧さんがアメリカから帰国したのは1961年。その2年後に東京芸大に入った僕は青山の草月ホールで始まった前衛音楽のコンサート・シリーズへ通い続け、フレッシュな刺激をふんだんに浴びた。それ以来60年近く、ひと世代上の同業者の中で眩しい存在だったのが一柳さん。机上の作曲のみならず、ピアノ演奏や隣接ジャンル(美術、ダンス、演劇、詩そのほか)とのコラボレイション、またさまざまな企画の最前線を走りつづけた。若々しく高い熱量を保ちながら、他方それをみじんも感じさせない静かさに満ちたかただった。
僕のヴァイオリンとチェロのための新作を、初演後すぐに東京のフィンランド大使館で再演してくださったり、横浜みなとみらいホールに関わっていた僕と、ともに神奈川で仕事をしている二人ということで、雑誌の対談をしたり……。きっと、今も泉下で作曲しているにちがいない。その曲を、聴きたい。

ピアニスト高橋 アキ

1972年に私は東京で2回リサイタルをした。そしてその両方で一柳さんの新作を演奏した。最初の時は演奏指示がまったくない、声明の博士のような漢字や記号が書かれた3枚の紙が楽譜だった。その時に「今ピアノ曲を書いていましてね」とおっしゃったので、4カ月後の2回目のリサイタルで演奏することにした。それがなんと五線紙に音符が連なった反復音楽の、前代未聞の傑作『ピアノ・メディア』だった。それ以来、一柳さんは通常の記譜法でも作曲を始めたのだった。しかしそれまでの10年間、前衛音楽の旗手としての活動 ― 音符は一切書かず、ピアノの下に潜って木槌で響板を叩いたり、ステージをスタスタと普段と同じように歩きまわっては、無表情に音を発する一柳さんを見て大いに刺激を受けてきた私には、この突然の伝統回帰ともいえる方向転換にはなかなか付いていけなかった時期がある。しかし彼は常に自分の演奏と作曲両方を大事にし、無理のない身体感覚を持つ音楽家なのだと段々に気づいていった。いつも自然体で好奇心に満ちて何事にもポジティブだった一柳さん。高校入学時から60年以上、親しく接してきた一柳さんの大きな存在を今も感じ続けている。

2000 - 2022 神奈川芸術文化財団 芸術総監督に就任。
横浜の地を中心に縦横無尽な活動を展開し、さらに後進へ多くのことを伝え、影響を与えていく

2000年
神奈川芸術文化財団 芸術総監督に就任。
2001年
「Percussion Now」にて《雅楽の主題による「内なる聲」》初演(音)
2002年
《ビトゥイーン・スペース・アンド・タイム》初演
《開幕ベル》作曲。以後、神奈川県民ホール及び神奈川県立音楽堂において主催公演等で使用。
2003年
《オペラ「光」》初演
2004年
神奈川県立音楽堂開館50周年記念《生田川物語》初演 (※)
2006年
神奈川県民ホール開館30周年記念《オペラ「愛の白夜」》初演 (※)
「アンサンブル・ヴィエナ・コラージュ」にて《スペース・シーン》初演 (音/ ※)
2007年
ジャンル横断型企画「アート・コンプレックス」シリーズ開始 (2012年まで3回実施) (県民)
2009年
神奈川県立音楽堂開館55周年記念公演にて《ピアノ協奏曲第4番「JAZZ」》初演 (※)(ピアノ:山下洋輔)
《オペラ「愛の白夜」改訂決定版》初演(県民)
2010年
日本・フィンランド新音楽協会理事長就任
2011年
正倉院復元楽器による「千年の響き」アンサンブル・ニュートラディション (県民)
2012年
《オペラ「ハーメルンの笛吹き男」》初演 (県民/※)
2013年
「Avanti! 室内アンサンブル」にて《クラリネット六重奏曲》初演 (県民)
2015年
神奈川県民ホール開館40周年記念《オペラ「水炎伝説」》改訂版初演
「フラックス弦楽四重奏団」 (県民) (2020年にも招聘)
若手演奏家を支援する「一柳コンテンポラリー賞」創設
交響曲第9番「ディアスポラ」初演
2016年
芸術監督プロジェクト (一柳慧×白井晃)「塩田千春展×ダンス・音楽」 (KAAT)
2018年
芸術監督プロジェクト (一柳慧×白井晃)「ミュージック・クロスロード」(音)
2019年
芸術監督プロジェクト (一柳慧×白井晃)「Memory of Zero」(県民)
2021年
芸術総監督就任20周年記念「Toshi 伝説」(県民/ 音)
2022年
神奈川県民ホール開館50周年記念オペラシリーズVol.1 
ロバート・ウィルソン/フィリップ・グラス《浜辺のアインシュタイン》(県民)
一柳は上演初日の前日、10月7日に逝去。芸術総監督として最後のプロデュース公演になった。

※) = 当財団委嘱作品
(県民) = 神奈川県民ホール (ギャラリー含む) / (音) = 神奈川県立音楽堂 / (KAAT) = 神奈川芸術劇場

メッセージMessage

美術家塩田 千春

2007年の神奈川県民ホールギャラリーでの個展で一柳さんと初めて出会いコラボレーションさせていただきました。神奈川県民ホールのキュレーター、中野仁詞さんによる個展『沈黙から』塩田千春 & アートコンプレックスが企画がされ、一柳慧さんは、『沈黙のヴィルトゥオーゾ』を発表されました。一柳さんがユニットを作り寒川晶子さん、足立智美さんの3人が私のインスタレーション作品を舞台にしてパフォーマンス演奏をしました。一柳さんは大先生ですが、当時若手の私たちにとても優しく、しかも気さくで紳士でした。でも演奏が始まると、一瞬にして空気が変わり、演奏中の場を囲む張り詰めた緊張感が今でも忘れられません。演奏が終わった一柳さんは私に、「ピアノから放射線に張られた黒い毛糸が音を抑えて思うように響かなかった。この糸が音を遮るのは予想外だった」と反省しているようでした。それを聞いて、この人は本当に今も挑戦し続けているのだと思いました。気がつけば私も大人と言われる歳に。一柳さんのような大人に憧れ、私も成りたかったですが、やはり彼のようには、なれないです。一柳さんは偉大です。

演出家・元KAAT神奈川芸術劇場芸術監督(2016~2021)白井 晃

一柳先生と最初にご一緒したのは2006年のオペラ《愛の白夜》です。オペラ初演出の私にも、大きな許容力を持って常に丁寧に接してくださいました。若手の表現者を見守り続け、次世代に繋いでいこうという姿勢は、最後の最後までお変わりありませんでした。それは、裏を返せば表現はコンテンポラリーなものでなければならないという信念がおありだったからだと思います。その中で、先生が私によく仰っていたのが「総合芸術としての舞台芸術」です。音楽と身体表現と美術と文学の融合。舞台芸術にこそ可能性があり、先生はその理想の姿をずっと追い求めておられた気がします。私がKAAT神奈川芸術劇場の芸術監督に就任してからも、神奈川芸術文化財団の芸術総監督のお立場から芸術監督プロジェクトを提唱くださり、演劇人である私とのコラボレーションを積極的に行なってくださいました。『ミュージック・クロスロード』と『Memory of Zero』において、その融合がどこまで先生のイメージに近づけたのか、今となってはお聞きすることは叶いませんが、この挑戦は、私にとってかけがえの無いものになりました。「まだまだあります、もっと挑戦できます」という先生のもの静かなお声が、今も心の中で力強く響いています。

ヴァイオリニストトム・チウ Tom Chiu(フラックス弦楽四重奏団)

It was a real privilege and honor to have known and worked with the great Toshi Ichiyanagi. A highlight of our time together was the recording of all of his string quartets, including String Quartet No.5, written for FLUX Quartet. We were grateful to Ichiyanagi for writing such an impactful piece. A sign of a true master, Ichiyanagi's musical insights and conceptual designs are clearly manifested in his scores. To be able to experience his wisdom and kindness in person is lasting memory I will forever cherish. Thank you, Maestro Ichiyanagi, for your unique musical vision and profound body of work. You will be greatly missed.

一柳慧という素晴らしい方の知己を得て、一緒に仕事をする機会を得られたのは、実に光栄で名誉なことでした。共に過ごした多くの時間の中でも最高の出来事は、一柳氏お立ち会いのもとで行った弦楽四重奏曲全曲の録音です。「弦楽四重奏曲 第5番」はフラックス弦楽四重奏団のために書かれた作品で、こんなにも強く心に訴える作品を書いていただき、大変感激しました。真の巨匠であった一柳氏のスコアには、氏の持つ音楽に対する眼識と楽曲の構想設計が明確に表されています。その知恵と厚情に直に触れることができたことは、私にとって一生大切にしたい思い出です。
マエストロ一柳、あなたの音楽に対する比類なき慧眼、残してくださった意義深い作品の全てに、感謝を捧げます。あなたのことはいつまでも忘れません。

作曲家権代 敦彦

年が明けて間もなく、奈義町現代美術館を訪ねた。昨年末、設計者で建築家の磯崎新さんの訃報に接し、気持ちが動いたからだ。
建物に入ると宮脇愛子作「大地」《うつろひ》に迎えられる。ワイヤーの描く線に沿って、目を上げると青空、下げると水面に空とワイヤーの影。傍らのベンチに腰掛け、ヘッドホンで一柳慧作曲「星の輪」を聴く。この笙の独奏曲は一柳音楽の極北。あの小さな伝統楽器から時空を超えた壮大な宇宙を描く。この曲のレコードジャケットが、何と磯崎新の、ポストモダンで理知的な建築画。二人の芸術家の至上のマリアージュ。この曲をこの美術館のこの空間で聴くことで、同じ年に逝った二人への追悼とした。
笙とオルガンという、洋の東西を象徴する楽器を軸に、正倉院復元楽器、仏教声明も加わるプロジェクト「千年の響き」。その為に一柳さんと僕が新曲を書き、欧州各地のカトリック聖堂で公演したことがある。その際に磯崎さんが、我々二人の新曲について次のような言葉を寄せた。「この試行は、時間、空間、メディア(楽器)全てが抱える枠組を解体した全く自由な音楽」。これを可能にしているのは、「すべてを等距離にみすえる力業、空無の世界の只中にある強靱な意志だ」と。
何からも「自由」であることは極めて困難であり、語義矛盾する程に「不・自由」な意志が不可欠だが、これを貫き通し、思想を行動によってかたちにした先達を、あとは見習い、受け継いでいくしかない。

三味線奏者本條 秀慈郎

"流動するモダニズムの中に"
演奏するということを考える時、その時代の潮流を意識することもあります。しかし一柳先生から教えて頂いたことの一つに、演奏についてとても大事なことがあります。
ある時先生のご自宅でピアニストの話に。私は幼い頃、親の趣味でたくさんのピアニストのCDを聞いて、同じ曲でもこんなにも演奏者によって曲が変わるのかと幼いながら感じました。中でもA.B.ミケランジェリがお気に入り。しかし先生にとってその世代はネクストジェネレーションで、さらに前の時代のピアニストたちの演奏や録音に接していたそうです。私にとっては聞いたこともない名前の演奏家と、その頃のピアニズムの話を先生は聞かせて下さいました。さらに別のタイミングで、ルネサンスの頃の演奏家について、その頃は楽譜の情報が充分でないぶん、かえって演奏家がいろんなことを模索していたとも教えて頂きました。
柔軟なモダニズムの中に回帰する先生の理念は、いまでは私の大切な演奏の礎となっております。

劇作家・演出家・俳優 KAAT神奈川芸術劇場芸術監督(2021~)長塚 圭史

もっと!もっと新しいことを!
神奈川県民ホール・神奈川県立音楽堂の芸術参与を務められている沼野雄司氏にご伝言される言葉は徹底的に「新しさ」を追求するものでした。それは芸術の最も純粋なありようです。未知なるものを追い求めること。残念ながら一柳先生と直接ゆっくりとお話しする機会には恵まれませんでしたが、そのお言葉はいつも力強く響きました。しっかりと心に抱いていきたいと思っています。

このページでご紹介した一柳慧の歩みは、22年間芸術総監督を務めた神奈川芸術文化財団との関わりを中心に編集したもので、89年にわたる氏の生涯のほんの一部にすぎません。
作成にあたっては、多くの関係の皆さまにご協力をいただきました。またメッセージをお寄せ下さいました方々にはこの場をお借りしてお礼を申し上げます。
公益財団法人神奈川芸術文化財団

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